序:先代が遺した「一」という数字の重み
朝6時。冬の名残が残る山間の空気をつんざくように、作業場のボイラーが唸り声を上げる。かつては当たり前のようにそこにあった「先代」の背中がなくなって、3年。地域生協の食卓を支え続けてきた『一穂(いっすい)』の作業場を守るのは、潤さんだ。
「なくなってから初めて、その偉大さを痛感しました。何十年とこの作業を続けていたのかと思うと……すごい人だったんだなって。今は機械の一つひとつの音、石灰の回り具合、そのすべてが自分の責任。毎日が、先代との答え合わせのようなものです」
伝統を受け継ぐ。その言葉の響きは美しいが、現場は過酷な現実の連続だ。原材料費の高騰、温暖化による品質の変化、そして長年共に歩んできたベテランパートさんたちの離職。一人の経営者として、職人として、潤さんは今、かつてない荒波の中に立っている。
バタバタと響く、現場の音
作業場に響く、バタバタという音。
この音が、一穂のこんにゃくの仕上がりをつくっている。一穂のこんにゃくを語る上で欠かせないのが、「バタ練り」という製法だ。
「最近は大きなタンクで一気に練り上げるやり方が主流です。でも、うちはずっとバタ練り。叩き込むように練るから、そう呼ばれているんです」
機械のスピードと練り具合。このバランスが少しでも崩れると、こんにゃくの仕上がりは一気に変わる。
それでも、この製法をやめることはない。
バタバタと響く音。その中で生まれる細かな気泡が、あの食感をつくる。
先代・一穂が守り続けてきたものを、自分の手で確かめながら、今日も同じ工程を繰り返している。
コンクリ色に終わった夢
「こんにゃくを固める工程って、タイミングが難しいんですよ」
そう言って笑いながら話してくれたのは、過去の試行錯誤の一つだ。
鍋の中をのぞくと、さっきまでとは打って変わって、重く濁った灰色の塊ができていた。
「もうね、完全にコンクリート(笑)。直角すぎてびっくりしました」
形を変えようと試みたこともあった。
アポロチョコのような形を目指してみたが、型が浅くうまくいかない。
人参を使えば、オレンジやピンクに振ってしまう。
思うようにはいかない。
それでも、「でも、いいんです。ちょっと変わったこんにゃくがあってもいい。その試行錯誤が、今につながっていると思うんです」
うまくいかなかった経験も、そのまま積み重ねている。
守るために「捨てる」という決断
経営者としての判断は、時に現場以上に厳しい。
その一つが、給食配送の断念だった。
「以前は親父がいて、姉もいて、みんなで配送を回せていたんです。今も姉は関わってくれていますが、当時のように余裕のある体制ではなくて」
給食は時間が一分一秒で決まっている。
もし配送中に事故が起きたら。
もし自分が体調を崩したら。
「穴を開けるわけにはいかないインフラに対して、今の体制で責任が持てるのか」
そう自問した結果、断念した。
売上は当然、下がった。それでも、
「できないことを、できるふりして続けることはしたくなかったんです」
「一人で背負う」というより、今の体制で守れる範囲を見極めた上での判断だった。
「人を雇えば解決するかもしれない。でも、今の時代、小さな店にとってはそれ自体がリスクにもなる。だったら、今いる体制で守りきれる範囲で、ちゃんといいものを届けたい」
その選択が、先代から受け継いだものを次に繋ぐための、彼なりの答えだった。
この場所を、どう残すか
かつて『紅うさぎ』という名で、こんにゃくを主役にした料理を提供していた場所がある。ここをどう活かすか。
「紅うさぎも今は休業している状態なので、それも含めて、これからどう使っていくか考えているところです」と淳さん。
答えはまだ決まっていない。
ただ、一つだけはっきりしていることがある。
「ここで続けていく、ってことですね」
地域で長く続いてきた店が、少しずつ姿を消していく中で、この場所を残すこと自体に意味があると考えている。
結:終わらせないという選択
「やめるって言えば、すぐなんですよ。でも、続ける方がずっと難しい」
取材中、何度も繰り返された言葉だ。
大きな展開も、派手な広がりも、今はまだない。それでも、朝6時に火を入れる日々は続いている。
大量生産では出せない、「バタバタ」という音。その呼吸を、一丁の中に閉じ込めるように。
先代・一穂から受け継いだものを、どう残していくのか。その答えを、現場で探し続けている。