ホーム コラム一覧 15年の絆が育む、多摩と福島の「未来」への合唱【特集】多摩と福島、合唱がつなぐ15年の航路

2026.04.08

15年の絆が育む、多摩と福島の「未来」への合唱【特集】多摩と福島、合唱がつなぐ15年の航路

「おにぎり一つの恩」から始まった、ある商店主の執念と祈り

多摩市の春を彩る「せいせき桜まつり」。その華やかな賑わいの裏側で、15年もの間、ひたむきに福島との交流を繋ぎ続けてきた一人の男性がいる。桜ケ丘商店会連合会の平(たいら)さんだ。

「今年は45回目の節目。そして、震災からの復興支援としては15年目になります」。
そう語る平さんの言葉には、一言では言い尽くせない重みがある。
平さんの活動の核となっている「ふれあいコンサート」は、多摩の子供たちと被災地の子供たちが歌を通じて交流するプロジェクトだ。だが、その「交流」という言葉の裏には、平さんが背負い続けてきた凄まじい熱量と、未来への切実な願いが隠されていた。

原点にある「生きた心地がしなかった日」

平さんがこれほどまでに復興支援に没頭する理由は、極めて個人的であり、かつ痛切な体験に基づいている。

2011年3月11日、平さんの娘と3歳の孫は、岩手県大槌町で被災した。
「電話も繋がらない、学校も繋がらない。必死で各地に電話をかけ続けましたが、ツーツーツーという虚しい音だけが響いていました」。 娘たちは、雪の残る山を必死に駆け上がり、津波と火災を逃れた。避難所でも危険が迫り、車もない中で途方に暮れていた時、一台の車が彼女たちを救い出し、さらに奥の安全な場所へと運んでくれた。

「お腹を空かせた3歳の孫に、見知らぬ方がおにぎりを差し出してくれたそうです。車に乗せてくれた方も、おにぎりをくれた方も、誰だかわかりません。でも、その名もなき方々のおかげで、娘たちの命は繋がった。その恩を、どうにかして社会に返したい。それが私の原動力なんです」。

平さんが語る「恩返し」は、特定の人への返礼ではない。自分が受けた「見知らぬ誰かの優しさ」を、今度は自分が「見知らぬ誰かのために」繋ぐ。その決意が、15年に及ぶ活動の灯を絶やさずにきたのだ。

15年が紡いだ奇跡。少女から「先生」へ

平さんが語るエピソードの中で、最も輝きを放つのは、一人の女性の成長物語だ。

「去年の春、市長から『平さんが一番喜ぶと思って』と電話があったんです。Sさんが、多摩市の小学校の教員に着任しました、と」。
Sさんは、第1回の交流会でピアノ伴奏を務めた小学生だった。その後、中学でも吹奏楽部の部長として福島との交流をリードし、大学を経て、ついに自分の故郷である多摩で教職に就いた。

「かつて交流に参加した子が、それぞれの夢を抱き、間違いなく成長している。彼女のような存在こそが、この15年の月日の答えです。震災で傷ついた子供たちと向き合い、対話を重ねた経験は、必ず彼女の教育現場で生きてくるはずです」。

平さんは「自分がやったから全てが影響したとは思わない」と謙遜するが、一方で「私たちが動かなければ、そのきっかけすら白紙だった」とも断言する。一人の大人の情熱が、一人の子供の人生の進路に小さな、しかし確かな光を灯した瞬間だった。

復興の影にある「消えゆく故郷」

しかし、平さんの眼差しは決して楽観的ではない。「復興は道半ば」という言葉を、平さんは何度も繰り返した。 「駅が綺麗になり、新しい施設ができても、そこに住んでいた人が戻れなければ本当の復興とは言えない。双葉町にはいまだに町の中に学校を開けない現実があります」。

今回、双葉町から招く7人の小学生たちは、避難先のいわき市にある仮設の校舎で学んでいる。震災前、600人いた児童生徒は、今や28人にまで激減した。
「浪江町の小学校は、最後の卒業生を送り出して閉校しました。明治時代から続いた歴史が消えてしまう。多摩の子供たちには、それを知ってほしい。同じ年頃の子が、なぜ自分の町で学校に通えないのか。それを考えるきっかけを作りたいんです」。

平さんの活動は、単なる「楽しい思い出作り」ではない。原発事故という国策によって翻弄された人々の苦しみ、そして今なお続く分断。それを直視し、自分事として捉えるための「学び」の場なのだ。

孤独な旗振りと、支える手

これほどの活動を継続するには、並大抵ではない労力が伴う。
「正直に言えば、大変なんです。でも、自分の口から『大変だ』と言ってしまったら、全てがゼロになってしまう気がして」。予算の確保、学校や行政との調整、現地への視察。平さんは「独断専攻だと思われても、自分が動かなければ始まらない」と、自らを奮い立たせ続けてきた。

そんな平さんを支えてきたのが、自然派くらぶ生活協同組合をはじめとする多くの協力者たちだ。
「思いがあっても、支えてくれる資金やマンパワーがなければ何もできない。生協の皆さんの支援には、毎年本当に励まされています」。

平さんは、取材の最後にこう漏らした。
「私はもう77歳になります。いつまでも続けられるわけではない。でも、誰かがこの精神を受け継いでくれたら。ただのイベントで終わらせるのではなく、子供たちが何かを感じ、社会に問い続ける姿勢を繋いでいきたいんです」。

編集後記:私たちは何を繋ぐのか

平さんの話は予定の1時間を大幅に超え、語り尽くせないほどの想いが溢れていた。それは、彼がそれだけ多くの「命」と「未来」を背負って歩んできた証でもある。

平さんが撒いた種は、Sさんのように「先生」という形で見事に芽吹いている。
私たちが「自然派ライフ」を通じてできることは、平さんのような「熱き旗振り役」の想いを拾い上げ、一人でも多くの読者に届けることだろう。この記事を読んだあなたが、次に桜まつりの会場に足を運ぶ時、聞こえてくる子供たちの歌声は、きっとこれまでとは違う響きを持って届くはずだ。

それは、15年の月日が紡ぎ上げた、希望という名の旋律なのだから。

SNSシェア